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  • シュレーゲルとニーチェ

  • 投稿者:森 洋介
  • 投稿日:2011年 1月 6日(木)19時55分34秒
 
 新着書評、フィーヴェク『シュレーゲルとニーチェ ―― 超越論的詩学と概念による詩作』につき。
 http://studiahumanitatis.web.infoseek.co.jp/newbooks2011.html


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  • 文献学と存在論

  • 投稿者:prospero(管理者)
  • 投稿日:2011年 1月20日(木)23時24分41秒
  • 編集済
  • 返信
 
読み応えのある書き込みをありがとうございます。確かにドイツ文学関係の紹介は、思想と文学のバランスという面からすると偏りがあるのは否めませんが、それは英文学も同じかも知れません。フランス文学は、かなり思想と密接に繋がりながら翻訳も進められているような気がします。ドイツ文学・英文学の場合、文学と思想との相互乗り入れがいまひとつですね。その点では、ボーラーの『ロマン派の手紙』(法政大学出版局)が訳されているのは、まずまずのところのように思えます。

ロマン派に関して言うと、「初期ロマン派と解釈学」という主題がドイツ本国でかなり盛り上がっていた頃(1980年後半から90年代ですか)、日本では結局本格的な紹介がほとんどなされなかったのは痛いと思います。例外的に、今泉文子さんのものがある程度というのは、どうにも寂しい。何よりも、ガダマー、フランク、キットラーなどが寄稿していた論集『初期ロマン派の現代性』([Die Aktualität der Frühromantik, F. Schöningh 1987] そうそう、これも編者はE・ベーラーでした!)は、せめて翻訳がほしかったと思います。それにマンフレート・フランクのシュライエルマッハー関連のものも(Das individuelle Allgemeine)。まあ、いまからでも遅くはないと思いますが。だいたい日本の文学研究者は、Fr・シュレーゲルやコールリッジといった、文学とも思想ともつかない思想家は苦手のようですね。本当はそういうところにこそ、一番創造性が現れるというのに。その点では、由良氏のコールリッジには期待していたのですが、結局大きなものはまとまらず仕舞いのまま亡くなってしまいましたね。

ヤンポリスキーのご指摘の論考は、私も出色のものだと思っています。あれほど簡潔に、非ガダマー的な解釈学の問題とその系譜を浮かび上がらせたものは、なかなか思いつきません。今回ご紹介した『シュレーゲルとニーチェ』も、何よりもそうした問題意識を期待したのですが、なかなかそこまで射程の延びる議論はそうそうないようです。

ヤンポリスキーが、ナンシーの『声の分割』とともに、ハイデガーに向かっていくことに関しては、考えようが二つありうるような気がします。ひとつは、森さんが懸念されるような、文献学の存在論化というか、哲学化の方向。最終的にここを到達点としてしまうと、何のためにわざわざ解釈学から文献学を分離したのかが分からなくなってしまいます。これに対して、もうひとつは、文献学を存在論化するのではなく、逆に存在論を文献学化する、あるいはハイデガーを文献学化するといった方向です。何を言うかとお思いかもしれませんが、後期のハイデガーのヘルダーリン読解や初期ギリシア哲学解釈を、シュレーゲル的意味での文献学として再評価するというのも可能ではないかと思うのです。何しろ後期ハイデガーのギリシア文献の読解は、それこそ元々断片だった原典をさらに断片化するような相当に異様な読み方をしているからです。ヘルダーリン解釈でも、同じようなことが為されているように思います。考えてみれば、ディールス=クランツが20世紀初頭に『前ソクラテス期哲学者断片集』なるものをまとめたというのも、そうした文献学化の動向の一コマとも言えそうです。

日本関連の文献紹介もありがとうございます。阿部公彦氏のものは早速注文を出しました。龜鳴屋ですが、以前からこの書肆は気になっていました。不思議な造本のものを出したりしていますよね。HPで眺めて気にしていたのですが、注文するまでにはいたっていませんでした。ご紹介の上司小儉は良いものを教えていただきました。

ちなみに、ここの掲示板は、以前のようにスレッド全体がツリー状に見渡せるというようにはならないようですね。このスレッドも、行間も詰まっていて、少し見づらいですし、機会があったら、もう少し使い勝手のよい掲示板を探してみようかと思います。

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  • Re: 文献学とイロニー

  • 投稿者:森 洋介
  • 投稿日:2011年 1月16日(日)19時48分38秒
  • 返信
 
 エルンスト・べーラーはドイツでは大家らしいのに、『Fr.シュレーゲル』(安田一郎譯、〈ロ・ロ・ロ・モノグラフィー叢書〉理想社、一九七四年)しか邦譯書が無いやうで、獨文の讀めぬ身には眞價が測りかねてゐます。これも小册の入門書で詰まらなかったし……。一昔前に矢代梓が言ってゐましたが、ドイツ文學・思想の研究書って譯される方面が偏ってゐるのでせうか。ロマン主義論では屡々言及されるカール・ハインツ・ボーラーなんかも、なぜか面白さうな主著が譯されません。
 斷片性を體したニーチェの著作については、加納武『アフォリズムの誕生 リヒテンベルクとニーチェ』(近代文芸社、一九九六年)がバルタザール・グラシアンまで遡って系譜を綴ってゐましたし、英文學が主となりますが阿部公彦『モダンの近似値』『即興文学のつくり方』(松柏社、二〇〇一年/二〇〇四年)も斷片文學史論と見做せます。しかし本邦だと伊藤銀月『日本警語史』(一九一八年→一九八九年、由良君美の推輓で講談社学術文庫入り)があるくらゐで、近代についてが手薄です。銀月自身が「百字文」といふ忘れられたジャンルの創始者でもあり、齋藤緑雨・芥川龍之介・萩原朔太郎といった有名作家の定番以外にも見るべきものは色々あると思ふのですが。新聞紙上の埋め草短文を集成した『上司小劍コラム集』(龜鳴屋、二〇〇八年)、とか。ただ、思想や批評として面白いものは少ないかも。
 文獻學における斷片性は、好んでさうしたわけでなく、もともと古典古代の文獻資料が不完全な佚文でしか殘ってないから、斷片を繋いでゆく讀解力が文獻批判に要請されたのでせう。それを反轉させて、故意にフラグメント形式で書いて讀者の讀み込み=批判を誘ったのがシュレーゲルら初期ロマン派の編み出した「批評」だったと理解してゐます。それを當世風に脱構築とか間テクスト性とか呼びたければさう言へないこともありません。尤も、「デリダの先取りとしての初期ロマン主義的記号存在論」などと持ち上げられると(ヴィンフリート・メニングハウス『無限の二重化 ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』法政大学出版局、一九九二年)、異論がありますけど。日本でも近世に文獻學を開發した荻生徂徠ら古文辭學派が良い意味で「斷章取義」の法を唱へてゐたこと、相原耕作氏ら近年の研究者が注意する所です。とはいへ、原典再構を目的とするオーソドックスな文獻學からすると、敢へて開き直るかのやうに斷章でゆくイロニーの態度はやはり異端少數派でせう。
 以前に御紹介のヤンポリスキー「文献学化――ラディカルな文献学のプロジェクト」(乗松亨平譯、『隠喩・神話・事実性』水声社、二〇〇七年)でも、ヴォルフに發する近代文獻學の歴史を顧みて、シュライエルマッハー→ディルタイの解釋學に至る正統哲學路線に抗してフリードリヒ・シュレーゲル及びニーチェの非正統的な文獻學があったといふ見取圖でした。曰く、「哲学者たち」が「テクストを現在の必要に適合させる」ため「アレゴリー的解釈を発明し」た一方、文獻學者は「ロゴスの中継にのみ関わり意味には関与しない」(p.72)。「文献学が、理解する無理解という学問として興った」……「文献学がテクストの意味を理解しない学問として自己規定するのは」(「理解しない」に五字傍點)……「文献学は哲学により形成される。その分身として、理解[二字傍點]を希求する哲学に対する批判として、反省されざるものという哲学に不可欠の層に関する知として」(p.73)。ここでシュレーゲルの「無理解について」(山本定祐譯「難解ということについて」)のイロニー論を持ってくるのは、うまい。また「ロゴスの物質性」(p.73)の傳承を事とする、その意味での文獻學は、殆どメディア論に接近してゐます。でも最後にハイデガーなんかで締め括るのは御勘辨! それでは結局哲學になってしまふぢゃありませんか。もっとラッハマンとかシュピッツァーとかアウエルバッハとか檢討すべき文獻學者がをるでせうに。 

  • [2]
  • 文献学とイロニー

  • 投稿者:prospero(管理者)
  • 投稿日:2011年 1月15日(土)21時09分47秒
  • 返信
 
誤植の指摘をありがとうございます。訂正しておきました。

本書で指摘される断片性や過程性といった思考は、淵源を辿るなら、仰るように文献学に遡ることができると思います。近代文献学の出発点となったヴォルフにおいて焦点となったのは、「ホメロス問題」であり、ホメロスが果たして一人なのか、『イリアス』『オデュッセイア』に作品としての統一性があるのかといった、現代のテクスト論にも繋がる問題意識だったと思います。Fr・シュレーゲルは明らかにその思考を継承し、ニーチェは初期の文献学においてまさにこの問題を扱っていました。

アレマンにも確かにこうした指摘が見られますね。今回ご紹介した論文集でも、アレマンのイロニーの定義などに言及している著者はおります。ただ全体として紙幅の関係もあって、さほど網羅的な研究史の紹介などはなされておらず、文献表も付されていないので、それが不満でもあります。他に言及されているのは、もちろんポール・ド・マン、ハートマン、そしてドイツ語圏では、M・フランクなどです。

ちなみに、久し振りにアレマンの『イロニーと文学』を捜していて、一緒にベーラーの『イロニーと近代のディスクール』(Irony and the Discourse of Modernity, 1984)が出てきました。以前読んだ時には、やはり凡庸なまとめのような印象をもったのですが、いまざっと見直してみると、ポール・ド・マンやデリダの議論を紹介しながら、目配りは確かなものに思えました。こちらのほうが、文献的な拡がりに関しては見通しが得られるので、やはりベーラーも、それはそれで侮れないものかと思い直しました。

  • [1]
  • ベーダ・アレマン『イロニーと文学』

  • 投稿者:森 洋介
  • 投稿日:2011年 1月 6日(木)20時29分5秒
  • 返信
 
 新着書評、K・フィーヴェク編『シュレーゲルとニーチェ ―― 超越論的詩学と概念による詩作』につき。
http://studiahumanitatis.web.infoseek.co.jp/newbooks2011.html

 原書名の標記中Transzendentalposieとありますがeが一つ脱字ではありませんか。
 さてフリードリッヒ・シュレーゲルとニーチェといふテーマですと、小生が想起するのはベーダ・アレマン『イロニーと文学』(山本定祐譯、国文社、一九七二年四月)です。シュレーゲル弟のイロニー(及びそのニヒリスティックな歸結であるニーチェ)を修業時代の文獻學の經驗から出たものとアレマンが見たこと、拙文「讀書革命 或いは、世俗化する讀者」にも記しました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/biblio/revolution01.htm

 『イロニーと文学』は後半を占めるトーマス・マン論が中心と見られるものかしれませんが、イロニーと文獻學といふ自分にとって興味ある主題を結びつけてくれた前半部に散らばった指摘の方が面白く讀めたやうに記憶します。尤も、「その対比が哲学的にどのような新生面を切り開くかという点にまでは及んでいない」といふ御指摘がやはり當て嵌るかと思ひますが、刺戟的ではありました。
 御紹介の論集では、先行研究としてエルンスト・べーラー以外にアレマンなどはどんな風に言及されてゐる(もしくは、ゐない)のでせうか。


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